死者の占有をわかりやすく — 殺害直後に奪えば、なぜ窃盗罪なのか
人を殺した男が、その直後、倒れた被害者の腕から腕時計をもぎ取りました。持ち主はもういません。それでもこの行為は、落とし物を我が物にする罪(占有離脱物横領罪)ではなく、窃盗罪です。最高裁判所は昭和41年4月8日、被害者が生前もっていた財物の所持は死亡直後においてもなお保護されるとして、殺害した本人による奪取に刑法235条の窃盗罪の成立を認めました。刑の重さは1年以下から10年以下へ、桁がひとつ変わります。

死者の占有とは — 最高裁判所第二小法廷 昭和41年4月8日判決
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 裁判所 | 最高裁判所第二小法廷 |
| 判決日 | 昭和41年(1966年)4月8日 |
| 事件番号 | 昭和40年(あ)第1573号 |
| 判例集 | 刑集20巻4号207頁 |
| 論点 | 死者の占有/窃盗罪と占有離脱物横領罪の区別 |
| 結論 | 上告棄却(窃盗罪の成立を肯定) |
「死者の占有」は、亡くなった人が財物を「持っている」といえるかを問う論点の通称です。窃盗罪が成立するには占有の侵害が必要であり、その占有が死亡によって消えるのかが正面から争われました。
何が起きたのか(事案)
以下は、判決文および判例集に掲載された審級の認定にもとづきます。当事者はすべて仮名です。
被告人は自動車を運転中、帰宅途中の女性を見かけて車に乗せ、人目のない場所で乱暴に及びました。犯行の発覚を恐れた被告人は女性の殺害を決意し、頸部を圧迫して窒息死させたうえ、穴を掘って遺体を埋めています。その際、被告人は女性の腕から腕時計1個をもぎ取りました。
起訴された罪名は、強姦致傷罪・強姦罪・殺人罪・死体遺棄罪・窃盗罪。第一審(横浜地方裁判所 昭和38年11月27日判決)は死刑を言い渡し、控訴も棄却されています。被告人側は上告し、腕時計を取った行為は占有離脱物横領罪にとどまると主張しました。
争点 — 死亡した被害者に、なお財物の占有は認められるか
窃盗罪(刑法235条(新しいタブで開く))は「他人の財物を窃取した者」を処罰します。「窃取」とは、占有者の意思に反して財物の占有を自分に移すことをいい、前提として誰かの占有が存在していなければなりません。
刑法上の占有について、最高裁は昭和32年11月8日判決(刑集11巻12号3061頁)で次の規範を示しています。
刑法上の占有は人が物を実力的に支配する関係であつて、その支配の態様は物の形状その他の具体的事情によつて一様ではないが、必ずしも物の現実の所持又は監視を必要とするものではなく、物が占有者の支配力の及ぶ場所に存在するを以て足りると解すべきである
つまり、手に持っていなくても、社会通念上その人の支配が及んでいれば占有はある、という考え方です。実際、置き忘れたカメラを約19.58メートル・約5分の距離で持ち去った事案では占有が認められ、窃盗罪が成立しています。近年でも、公園のベンチに置き忘れたポシェットを、持ち主が約27メートル離れた時点で持ち去った事案について、最高裁は占有はなお失われていないと判断しました(最高裁第三小法廷 平成16年8月25日決定・刑集58巻6号515頁)。
しかし死は、支配する意思も、支配の事実も消してしまいます。形式的な理屈を貫けば、死者の財物は「誰の占有にも属しない物」となり、これを取る行為は占有離脱物横領罪(刑法254条)にとどまるはずです。
裁判所は何と言ったか(判旨)
最高裁は上告を棄却し、窃盗罪の成立を認めました。判示は次のとおりです。
被害者が生前有していた財物の所持はその死亡直後においてもなお継続して保護するのが法の目的にかなうものというべきである
被害者からその財物の占有を離脱させた自己の行為を利用して右財物を奪取した一連の被告人の行為は、これを全体的に考察して、他人の財物に対する所持を侵害したものというべきである
右奪取行為は、占有離脱物横領ではなく、窃盗罪を構成するものと解するのが相当である
つまり、占有を消したのは被告人自身の殺害行為であり、その状態を利用して奪う一連の流れを全体として見れば、他人の財物への所持を侵害したと評価できる、という論法です。「もう持ち主はいない」という主張を、殺した本人には許さない、という価値判断がここにあります。
なお、この判示は上告趣意に対する説示(判決文の括弧書き)として述べられたものです。
この判例が決めたこと(意義)
判決が保護の対象としたのは「生前の所持」であり、死者に新たな占有を認めたわけではありません。この構成から、次の3つの限定が導かれます。
| 限定 | 内容 |
|---|---|
| 誰に対して | 殺害した本人との関係でのみ働く(第三者には及ばない) |
| いつ | 死亡の「直後」であること |
| どこで | 犯行の「その現場」であること |
とりわけ第一の限定は重要です。同じ腕時計を取っても、殺した者は窃盗罪、通りすがりの第三者は占有離脱物横領罪と、行為者によって罪名が変わります。学説はこれを相対的な構成と整理しています。
学説はどう整理しているか
学説は、この種の事案を行為者の意思が生まれた時点によって整理しています。判決文自体がこの分類を採用しているわけではなく、あくまで学説による見取り図です。
- はじめから財物を奪う意思で殺害した場合 — 財物奪取の手段としての殺害であり、強盗殺人罪(刑法240条)
- 殺害した後に領得の意思が生じた場合 — 本判決の事案。窃盗罪
- 殺害に関与しない第三者が死者の所持品を取った場合 — 占有離脱物横領罪とするのが通説
一方で、批判もあります。「死亡直後」「その現場」という限界がどこまでなのか不明確で、判断が恣意に流れるおそれがあるという指摘です。実際、その後の裁判例には、時間や距離そのものより財物の管理状態が変化したかどうかに注目するものがあり、室内での殺害から3日半後に時計を領得した行為に窃盗罪を認めた例も報告されています。本判決の「直後・現場」という線引きは、野外での犯行という事案を前提にしたものだった、という整理です。
被害者が生きている場合との対比も押さえておく価値があります。暴行を加えた後に領得の意思が生じた事案では、原則として新たな暴行・脅迫が必要とされますが、被害者を緊縛したままであれば、その状態の継続が実質的な暴行にあたるとして強盗罪を認めた裁判例があります(東京高等裁判所 平成20年3月19日判決)。死んだ相手には脅しが働かず、生きている相手には働く。この違いが罪名を分けます。
答案ではどう書くか
- 何罪の成否を検討するのかを確定する(強盗殺人罪・窃盗罪・占有離脱物横領罪のいずれか)
- 領得の意思が生じた時点を確認する(殺害前なら強盗殺人罪の検討へ)
- 刑法235条の文言から要件を立てる(「他人の財物」「窃取」)
- 「窃取」の前提となる占有を定義する(事実上の支配。現実の所持・監視は不要)
- 死者には支配の意思も事実もないことを指摘し、問題提起する
- 条文の趣旨から規範を立てる(生前の所持は死亡直後もなお保護される)
- 3つの要素にあてはめる(殺害した本人か/死亡直後か/その現場か)
- 結論を述べ、第三者の場合との違いに一言触れる
出題実績としては、平成29年司法試験の刑事系科目第1問で、この論点が正面から問われました。法務省が公表した採点実感に「死者の占有」が明記されています。ただし出題された事案では、被害者が財布を奪われた時点でまだ生存しており、被告人らが死亡したと誤信していたという構造でした。客観的には通常の窃取であり、死者の占有は故意(主観面)の問題として問われています。本判決の事案の型と、試験で問われた形は同じではありません。
動画で見る
この事件は「レイの法廷」で映像化しています。物語パートで事案をたどり、刑法235条の条文から答案の型までを扱う構成です。公開状況はレイの法廷でご確認ください。
関連する論点として、実行の着手を扱ったクロロホルム事件、不作為による殺人を扱ったシャクティパット事件の記事もあります。
よくある質問
Q. 死者に占有が認められた、ということですか?
いいえ。判決が保護したのは「被害者が生前有していた」所持であり、死者に新しく占有を認めたわけではありません。生前の占有が死亡直後もなお保護される、という構成です。
Q. 通りすがりの人が遺体から金品を取った場合はどうなりますか?
占有離脱物横領罪(刑法254条)とするのが通説です。本判決の理屈は殺害した本人との関係でのみ働くため、第三者には及びません。同じ物を取っても行為者によって罪名が変わります。
Q. 窃盗罪と占有離脱物横領罪では、どれくらい刑が違いますか?
窃盗罪は10年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金、占有離脱物横領罪は1年以下の拘禁刑または10万円以下の罰金もしくは科料です。上限が10倍違います。
Q. 殺してから何時間後までなら「直後」といえるのですか?
判決は数値の基準を示していません。この不明確さは学説からも批判されている点です。その後の裁判例には、時間の長短よりも財物の管理状態が変わったかどうかを重視するものがあります。
Q. 最初から金品を奪うつもりで殺した場合は何罪ですか?
強盗殺人罪(刑法240条)の検討になります。財物奪取の手段として人を殺している以上、死刑または無期拘禁刑という最も重い法定刑が予定されている類型です。
本記事は判決文および公表資料にもとづく一般的な解説であり、個別の事案についての法的助言ではありません。記事および動画に登場する人物名はすべて仮名です。
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