何もしないことが罪になるのは、どんなときか — 不作為犯の二つの入り口
「何もしないこと」も、法律では罪になるのだろうか。結論から言うと、なることがあります。ただし理由は一つではありません。日本の刑法には、最初から「しないこと」自体を罰する条文と、本来は「すること」を罰する条文を「しないこと」にも広げて適用する場合の、二つの入り口があります。最高裁判所は平成17年7月4日の決定で、重篤な患者を放置して死なせた人物に、後者の入り口から不作為による殺人罪を認めました(刑集59巻6号403頁)。この二つの入り口を分けて整理します。

結論 — 「しないこと」を罰する条文と、「すること」の条文を広げる場合がある
なぜそうなるのか — 条文の書かれ方が違う
殺人罪の条文は、これだけです。
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する。(刑法199条)
「殺した」という、体を動かした形で書かれています。何もしなかった人にこの条文をそのまま当てはめてよいのかは、条文の文言だけでは決まりません。だからこそ、これを「しないこと」で実現できるかという問題が、不真正不作為犯(ふしんせいふさくいはん)という論点として長く争われてきました。
これに対して、保護責任者遺棄等の罪を定める刑法218条は書き方が違います。この条文は、老年者・幼年者・身体障害者・病者を保護する責任のある者が、「その生存に必要な保護をしなかったとき」に成立すると規定しています。「しないこと」自体が、最初から条文の中に書き込まれているのです。このタイプを真正不作為犯(しんせいふさくいはん)といいます。
なぜこの区別が要るのか。理由は単純です。199条のように主体を絞っていない条文を、居合わせた全員に当てはめてしまえば、倒れた人のそばにいたというだけで誰もが殺人罪の候補になってしまいます。だから、しないことを罰してよい人を絞る仕組みが要る。218条のようにあらかじめ絞り込みが条文に書いてある場合と、199条のように解釈で絞り込みを作らなければならない場合とで、罪の成立の仕方がまったく違うわけです。
実際にこう判断された裁判がある
平成11年、ある男性が脳内出血で倒れ、入院していました。意識障害のため痰(たん)の除去や点滴等を要する状態でしたが、生命に危険はなく、数週間の治療を要するという状態でした。
男性の息子は、独自の治療法を行う人物の信奉者でした。父が後遺症を残さず回復することを期待してその人物に治療を依頼します。依頼された人物は重い病状の患者への治療経験がありませんでしたが、主治医がまだ退院を許さない状況を知りながら「点滴治療は危険である。今日、明日が山場である」と告げ、患者は点滴等が必要な状態のまま病院から運び出され、ホテルへ運び込まれました。依頼された人物は家族から手当てを全面的にゆだねられ、患者の重い状態を自分の目で確認しながら、医療措置を受けさせずに独自の治療を施すにとどめます。放置はおよそ1日に及び、患者は気道閉塞で窒息死しました。これがシャクティパット事件と呼ばれる事件です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 裁判所 | 最高裁判所第二小法廷 |
| 判断 | 平成17年7月4日 決定(上告棄却) |
| 事件番号 | 平成15年(あ)第1468号 |
| 判例集 | 刑集59巻6号403頁 |
裁判所が公表している裁判要旨は、次のとおりです。
重篤な患者の親族から患者に対する「シャクティ治療」(判文参照)を依頼された者が,入院中の患者を病院から運び出させた上,未必的な殺意をもって,患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせないまま放置して死亡させたなど判示の事実関係の下では,不作為による殺人罪が成立する。
つまり、放置したこと自体が殺人罪の実行行為だと認められました。決め手になったのは、自分の落ち度で危険を作り出したこと(病院から運び出させたのは本人だったこと)と、命を全面的に預かる立場にあったこと(手当てを全面的にゆだねられていたこと)の2つです。この2つの事実が積み重なったことで、199条という「すること」の形で書かれた条文が、「しないこと」にも及ぶと判断されました。なお必要とされた殺意も、確定的なものではなく未必的な殺意でした。
自分の場合はどうなるのか
以下は、二つの入り口が問題になりやすい場面の整理です。個別の事案でどうなるかを判断するものではありません。
| 場面 | 罰の入り口になりやすい事情 |
|---|---|
| 病人・高齢者・子どもなど保護する責任のある人が、必要な保護をしなかった | 刑法218条(真正不作為犯)がそのまま入り口になる |
| 自分の落ち度で相手を危険な状態に置いた、または保護を全面的に引き受けた | 作為義務が認められれば、殺人罪など「する」形の罪の入り口にもなりうる(不真正不作為犯) |
| 通りすがりで、相手との関係も落ち度もない | 原則としてどちらの入り口にも当たりにくい |
気になる状況が現実にあるなら、一般論ではなく弁護士等の専門家に相談してください。
受験生向けの一言
答案では、まず「問題となる条文が、最初から不作為の形で書かれているか」を確認してから書き始めるのが型です。218条のように条文自体が「しなかったとき」を規定していれば、その先は要件の当てはめに進めます。他方、199条のように行為の形で書かれた条文を不作為に適用するときは、作為義務(先行行為・引受けなど)を先に検討してから構成要件該当性に進む必要があります。この一段階を飛ばして「作為義務があるので殺人罪が成立する」と書くと、なぜ作為義務の検討が要るのかが採点者に伝わりません。
動画で見る
「レイの法廷」第6話では、このシャクティパット事件を扱っています。各話の一覧は特設ページにまとめています。
「助けなかっただけで罪になるのか」という入り口の疑問は見殺しは罪になるのかの記事で、作為義務がどこから生まれるかという学説の詳しい整理は作為義務の発生根拠の記事で扱っています。
よくある質問
Q. 真正不作為犯と不真正不作為犯は、何が違うのですか?
真正不作為犯は、刑法218条のように条文自体が「しなかったとき」を処罰対象として明記しているものです。不真正不作為犯は、殺人罪(刑法199条)のように本来「すること」の形で書かれた条文を、作為義務のある人が「しないこと」で実現した場合に適用するものです。
Q. 保護責任者遺棄致死罪と、不作為による殺人罪はどう違うのですか?
分かれ目は殺意です。刑法218条は保護する責任のある者が生存に必要な保護をしなかったときに成立し、それによって人が死ねば219条で重く処断されます。ここに「死ぬかもしれない、それでも構わない」という殺意が加われば、殺人罪の領域に入ります。
Q. 通りすがりの人が、倒れている他人を助けなかっただけでも罪になりますか?
一般に、助けなかったこと自体を罰する規定は日本の刑法にありません。罪が問題になるのは、結果を防ぐべき特別な立場(作為義務)にあった人が放置した場合です。面識も関わりもない通りすがりの人は、原則としてこの立場に当たりません。
Q. 作為義務があるかどうかは、何で決まるのですか?
最高裁平成17年7月4日決定が挙げたのは、自分の落ち度で相手の生命に具体的な危険を生じさせたこと(先行行為)と、手当てを全面的にゆだねられた立場にあったこと(引受け)の2つです。この2つの事実がどこまで揃っているかで、作為義務の有無が判断されます。
本記事は、公開されている決定文と条文にもとづく一般的な解説であり、法的助言ではありません。個別の事案については弁護士等の専門家にご相談ください。動画では当事者・団体を仮名にしたうえで、決定文の事実を基に物語として再構成しています。
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#レイの法廷#コラム#刑法#不作為犯