本文へスキップ
法律読了 約12分

敷金が返ってこない — ふつうに住んでできた傷みは、どこまで借主が払うのか

敷金は、部屋を返した時点で残っていれば、返さなければならないお金です。ふつうに住んでいてできた壁紙の変色や畳の日焼け、家具を置いた床のへこみ——こうした通常損耗(つうじょうそんもう・ふつうに使っていれば当然生じる傷み)と経年変化は、民法621条が原状回復の対象からはっきり外しています。それでも借主に負担させるには、その約束(特約)が契約ではっきり合意されている必要があります。最高裁判所第二小法廷は平成17年12月16日の判決で、契約書にも入居説明会にもその合意は見当たらないとして、敷金から通常損耗の修理代を差し引いた貸主側の主張を認めた原判決を破棄しました。論点は、原状回復義務の範囲と、通常損耗補修特約が成立するための条件です。

敷金が返ってこない — ふつうの傷みは借主が直さなくていい

結論 — ふつうに使ってできた傷みは、借主が直すお金ではない

だから「敷金が返ってこない」と感じたときに最初に見るのは、差し引かれた項目が「ふつうに住んでできた傷み」なのか、「借主がつけた傷」なのかという区別です。前者なら、それを借主に負担させる約束が契約のどこにどう書かれているかが問題になります。後者は、もともと原状回復の対象です。

なぜそうなるのか — 条文が「除く」と書いている

民法621条(賃借人の原状回復義務)は、こう定めています。

賃借人は、賃借物を受け取った後にこれに生じた損傷(通常の使用及び収益によって生じた賃借物の損耗並びに賃借物の経年変化を除く。以下この条において同じ。)がある場合において、賃貸借が終了したときは、その損傷を原状に復する義務を負う。ただし、その損傷が賃借人の責めに帰することができない事由によるものであるときは、この限りでない。

肝心なのは括弧の中です。原状に復する対象は「損傷」であって、そこからふつうに使ってできた損耗と経年変化は、最初から外されている。借主が直すのは、自分がつけた傷のほうだ、という組み立てになっています。

敷金のほうは民法622条の2です。貸主は、賃貸借が終わって部屋の返還を受けたときは、受け取った敷金の額から「賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない」と定めています。家賃の滞納や、借主が負担すべき修理代は差し引ける。引いた残りは返す。それが条文の形です。

この2つの条文は、2020年4月1日に施行された民法の改正で条文になりました。それより前は条文がなく、裁判所が判決で線を引いていました。その線を引いた代表が、次の事件です。

実際にこう判断された裁判がある

大阪府の特定優良賃貸住宅の一室を借りた人の話です。貸主は、地方住宅供給公社法に基づいて設立された法人でした。

平成9年12月8日、入居説明会が開かれました。約1時間半かけて、賃貸借契約書や「すまいのしおり」と題する書面が配られ、契約の重要な条項が説明されます。退去時の補修費用については、契約書の別紙である「住宅修繕費負担区分表」に基づいて負担することになる、という説明がありました。ただし、負担区分表の個々の項目についての説明はされませんでした。借主本人は出席できず、代わりに妻の母親が最後まで話を聞き、配られた書類を全部持ち帰っています。

平成10年2月1日、借主は賃料月額11万7900円でこの住宅を借りる契約を結び、敷金35万3700円を差し入れました。契約の際には、負担区分表の内容を理解している旨を記載した書面も提出しています。

その負担区分表には、たとえば「襖紙・障子紙」について補修が必要になる状況として「汚損(手垢の汚れ,タバコの煤けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」、「各種床仕上材」について「生活することによる変色・汚損・破損と認められるもの」と書かれ、いずれも退去者が費用を負担するものとされていました。

平成13年4月30日、借主は契約を解約して部屋を明け渡します。返ってきたのは5万1153円でした。敷金35万3700円から、通常損耗の補修費用を含む30万2547円が差し引かれていたのです。借主は、この30万2547円を返すよう求めて訴えました。

一審も控訴審も、借主の請求を退けています。負担区分表は契約書の一部であって内容は明確であり、借主自身が「理解した」という書面まで出している——というのが理由でした。

最高裁判所は、この判断を破棄しました。

建物の賃借人にその賃貸借において生ずる通常損耗についての原状回復義務を負わせるのは,賃借人に予期しない特別の負担を課すことになるから,賃借人に同義務が認められるためには,少なくとも,賃借人が補修費用を負担することになる通常損耗の範囲が賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか,仮に賃貸借契約書では明らかでない場合には,賃貸人が口頭により説明し,賃借人がその旨を明確に認識し,それを合意の内容としたものと認められるなど,その旨の特約(以下「通常損耗補修特約」という。)が明確に合意されていることが必要であると解するのが相当である。

つまり、こういうことです。ふつうに使ってできた傷みの修理代まで借主に払わせるのは、借主が予想していない特別の負担になる。だから、①契約書の条項そのものに、借主が負担する通常損耗の範囲が具体的に書かれているか、②契約書では分からないなら、貸主が口で説明し、借主がそれをはっきり分かったうえで合意した——そのどちらかで「特約が明確に合意されている」と言えなければ、借主は負担しない。

なぜ本来は貸主の側なのか、という理由も判決は書いています。通常損耗による価値の目減りの回収は「通常,減価償却費や修繕費等の必要経費分を賃料の中に含ませてその支払を受けることにより行われている」。ふつうの傷みの分は、すでに毎月の家賃に入っている、という理解です。

そのうえで、この事件へのあてはめはこうなりました。原状回復を定めた契約書22条2項は「原状に復する」「負担区分表に基づき補修費用を負担する」と言うだけで、通常損耗補修特約の内容を具体的に明記したものとはいえない。引用されている負担区分表も、「生活することによる変色」といった書きぶりからは「通常損耗を含む趣旨であることが一義的に明白であるとはいえない」。説明会でも、その内容を明らかにする説明はなかった。だから、特約の合意は成立していない。

事件の書誌は、最高裁判所第二小法廷 平成17年12月16日判決(平成16年(受)第1573号・集民第218号1239頁・破棄差戻・裁判官全員一致)です。判示事項は「賃借建物の通常の使用に伴い生ずる損耗について賃借人が原状回復義務を負う場合」と、その特約が成立していないとされた事例。裁判所の裁判例情報(平成17年12月16日 第二小法廷判決(新しいタブで開く))で確認できます。

ひとつ注意が要ります。最高裁がしたのは破棄差戻であって、30万2547円を全額返せと命じたわけではありません。通常損耗を除いた部分の補修費用がいくらになるかをもう一度審理させるため、大阪高等裁判所に差し戻しています。「ふつうの傷みの分は外れる」ところまでが、この判決で決まったことです。

敷引や更新料にも、同じ向きの物差しが使われている

退去時に返ってこないお金は、通常損耗の修理代だけではありません。保証金から定額を差し引く敷引(しきびき)、更新のたびに払う更新料。最高裁はこれらについても判断していて、見ている点は似ています。

争われたお金判決最高裁が重く見たこと結論
退去時の修理代(通常損耗補修特約)最高裁第二小法廷 平成17年12月16日判決(集民218号1239頁)通常損耗の範囲が「契約書の条項自体に具体的に明記」されているか、口頭説明と明確な合意があるか特約は成立していない(破棄差戻)
敷引金最高裁第一小法廷 平成23年3月24日判決(民集65巻2号903頁)敷引金の額が契約書に明示されているか、その額が「高額に過ぎる」か有効(消費者契約法10条で無効とはいえない)
更新料最高裁第二小法廷 平成23年7月15日判決(民集65巻5号2269頁)更新料条項が契約書に「一義的かつ具体的に記載」されているか、額が「高額に過ぎる」か有効(同上)

敷引について、平成23年3月24日の判決はこう述べています。

消費者契約である居住用建物の賃貸借契約に付された敷引特約は,当該建物に生ずる通常損耗等の補修費用として通常想定される額,賃料の額,礼金等他の一時金の授受の有無及びその額等に照らし,敷引金の額が高額に過ぎると評価すべきものである場合には,当該賃料が近傍同種の建物の賃料相場に比して大幅に低額であるなど特段の事情のない限り,信義則に反して消費者である賃借人の利益を一方的に害するものであって,消費者契約法10条により無効となると解するのが相当である。

言い換えると、「契約書に金額がはっきり書いてあり、その額が常識の範囲なら守らせる。高すぎるなら無効になりうる」という二段構えです。この事件では、賃料が月額9万6000円で、経過年数に応じて18万円から34万円を差し引く約束でした。最高裁はこの額を「上記金額の2倍弱ないし3.5倍強にとどまっている」として、高額に過ぎるとはいえないと評価しています。

ここで踏み外しやすい点が2つあります。ひとつは、最高裁は「賃料の何倍までなら有効」という上限を示していないこと。3.5倍という数字はその事案の評価であって、基準ではありません。もうひとつは、平成17年の判決が使っている道具が違うことです。この事件の契約は平成10年2月に結ばれており、消費者契約法(平成13年4月1日施行・施行後に締結された消費者契約に適用)より前です。判決も消費者契約法には触れず、「特約がそもそも成立したか」で判断しています。使った条文は違っても、契約書にはっきり書いてあるかを重く見るという向きは共通しています。

自分の場合はどうなるのか(境界線)

以下は、判決が示した物差しに照らすとどちら側に寄る話かという整理です。個別の結論はここでは出せません。

状況判決の物差しに照らすと
契約書に「通常損耗も借主負担」と具体的に書かれていない平成17年判決は、契約書の条項自体への具体的な明記を求めている。特約が成立しているかが争点になりやすい
「生活することによる変色・汚損」のような包括的な一覧表だけがある同判決は、この書きぶりを「通常損耗を含む趣旨であることが一義的に明白であるとはいえない」とした
契約時に範囲の説明を口頭で受け、内容を理解したうえで合意した同判決は、口頭説明と明確な認識・合意があれば特約は成立しうるとしている
借主がつけた傷や汚れの修理代民法621条の「損傷」にあたり、原状回復の対象。敷金から差し引かれる側
保証金から定額を引く敷引の約束がある平成23年3月24日判決の物差し(契約書への明示と、額が高額に過ぎるか)で判断された事案がある

同じ「返ってこない」でも、契約書の文言、説明の有無、傷の原因でどちら側に寄るかが変わります。金額が大きい、精算書の内訳に納得がいかない、話し合いがまとまらない——そういうときは、契約書と、退去時に受け取った精算書(見積書)の両方を持って、弁護士などの専門家に相談するのが目安です。

国のガイドラインも公表されている

国土交通省は「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」(再改訂版)を公表しています。全文173ページで、第1章 原状回復にかかるガイドライン、第2章 トラブルの迅速な解決にかかる制度、Q&A、第3章 原状回復にかかる判例の動向、参考資料という構成です。章ごとにPDFで無料で読めます。

これは法律の条文ではなく、国が公表している指針です。条文と判決がどう線を引いているかを先に押さえたうえで読むと、自分の精算書のどこが議論になる項目なのかが見えやすくなります。

動画で見る

この論点は、YouTube「レイの法廷」第34話で、更新料の事件とあわせて扱っています。通常損耗の判決は、そこで類似判例のひとつとして出てきます。

各話の一覧は レイの法廷 にあります。判例記事の一覧は 判例 から。契約書に書いた条項がどこまで効くのかという同じ問題は、「一切の責任を負いません」は、なぜそのままでは効かないのか でも扱っています。

よくある質問

Q. 敷金は必ず全額返ってきますか?

いいえ。民法622条の2は、受け取った敷金から、賃貸借に基づいて生じた借主の債務の額を差し引いた残額を返すと定めています。家賃の滞納や、借主が負担すべき修理代があれば、その分は差し引かれます。争いになりやすいのは、差し引かれた項目がふつうに使ってできた傷みかどうかという点です。

Q. 契約書に「通常損耗も借主負担」と書いてあれば、必ず払うのですか?

書いてあれば自動的に決まる、というものではありません。平成17年12月16日の最高裁判決は、借主が負担する通常損耗の範囲が契約書の条項自体に具体的に明記されているか、契約書で明らかでないなら口頭で説明を受けて明確に合意したことが必要だとしました。この事件では、包括的な負担区分表があっても足りないとされています。書き方と説明の中身次第なので、ご自身の契約書については専門家にご確認ください。

Q. ハウスクリーニング代を敷金から引かれました。これはどうなりますか?

この記事で取り上げた最高裁判決は、ハウスクリーニング代の特約そのものを判断した事件ではありません。したがって「必ず返る」「必ず引かれる」とは言えません。判断の手がかりになるのは、その費用が何に対するものか、契約書にどう書かれているか、という点です。国土交通省のガイドラインにも項目ごとの考え方が載っています。

Q. 敷引と敷金は違うものですか?

敷引は、預けた保証金や敷金から、退去時に決まった金額を差し引くという約束のことです。最高裁第一小法廷は平成23年3月24日の判決で、契約書に金額が明示され、その額が高額に過ぎるとはいえない事案について、この特約を有効と判断しました。ただし、上限となる倍率が示されたわけではありません。


本記事は判決文と条文にもとづく一般的な解説であり、法的助言ではありません。個別の事案の結論は、契約書の文言や事実関係によって変わります。当事者の呼称は、判決文の表記を一般名詞に置き換えています。判例の引用は判決文の表記(全角の読点など)をそのままにしています。制作: JurisCode.AI

コメント

コメントは即時公開されます。不適切な内容は予告なく削除します。

#レイの法廷#判例#民法#原状回復